あれから30年

阪神淡路大震災の発災から30年。この週末は特にこれまでを振り返るような報道や多数のイベントが開催されました。私もJIA近畿支部主催の市民大学講座「創造的な復興は成し遂げられたか」のパネリストとして呼んでいただき参加してきました。
30年前のその日は大阪市内に住んでいましたが、いつもより早く目覚めたとたんに大きな揺れが襲い、情報もないまま出勤時間を迎えました。いっこうに到着しない電車に見切りをつけ、そのうち動くやろ・・・と、廻りの人たちと一緒に市内中心部に向かって歩き、結局2時間ほど歩いて会社についてしまいました。当然のことながら出社人数は少なく1割程度。倒れた本棚などを直しながら、テレビなどから情報を得て、ことの重大さに気付いたのでした。夕方近くになって地下鉄が動き始めたとの報を受け、家に戻ることにし、翌々日は上司と一緒に船に乗って神戸のクライアントのお見舞いに向かいました。その時に撮影したのがこの写真。昨年の1月に起きた能登半島地震でみた風景とも似ています。崩れ落ちる街区の風景に衝撃を受け、集合住宅の再建に携わる傍らで、大阪市内で始まった木構造の勉強会に参加したことが、今の設計活動につながっています。
それから30年。行政を始め皆さんの努力で、表面上は地震の傷跡も分からないようなくらいの復興を遂げていますが、人口の少ない能登半島はそうはいかないでしょう。どんな未来像を求めて進むのか、地域の方と一緒に考えて支援できればと思います。この過程を「ゴールの見えないマラソン」と表現したら、弁護士さんから「階段の踊り場のような休憩場所が必用ですね」とアドバイスを頂きました。「あぁ、そうか、支援疲れしないような、休憩地点、息抜きのできる場所」が大切なんだと気づかされました。そういえば、昨年、連日の珠洲の被災者宅訪問をした際に、折角の事だからとソロキャンプをしました。不便だけれど、誰にも邪魔されない自由時間。これも息抜きでした。
踊り場は建築的には階段の折り返しの機能や、つまづいた人が多くの段を転げ落ちないようにするための機能があります。かって、この場所に付加価値を持たせることで他には無いような魅力が出来ることに気付き「おどりばの家」という住まいを設計しました。ちょっとした心のゆとりをもつことで、支援に向けても良いアイデアがわくかもしれません。そんなことを考えながら帰りの電車時間を過ごしました。(A)

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